デジタルメディアで自分の意見を説くことの軽薄さについて。
自分でも何を言っているのか分かっていない。
けれどこのことについて書いておきたい気がした。
簡単すぎるくせに難しい文章が書けてしまう。
これを繰り返していると、ゴミを増やすことがいとも容易く、また真に伝えるに値することを書き上げるのがとてつもなく困難な気がしてくる。 意味ある文章、勢いのある文章。何よりもイメージを喚起する文章。
これらを打ち続けるには、熱狂が必要だ。 まだ学生だったころ、自分自身の言葉だけを書きあげれば良かった。
故にとても気持ちよく、熱中して書き上げることが出来た。 これが社会人として生きてゆかなければならなくなったとき、ビジネス文章としての体裁と落ち着きを要求される。
また、自己イメージとしての成功者のような格好を気にする。
何となく知的でなければいけないように思えてくる。
語る内容も高尚でなければいけない。
大量のブックマーク、リツイート、Facebookのいいね!。。。 こうしてガチガチに拘束された文章というものが出来上がって、というか出来上げようとして、出来損ないがアップされることになる。
そんな記事は面白いか。
んなわけない。
私の文章が人気になることは無かった。
知的と感じられることも無かったろう。
悲しいことに高尚と受け取られることも無かった。 そうこうするうちに、自分の試みが無意味だったと悟る。
やがてブログを書き上げることを忘れ、毎日ツイッターで専門家気取りのつぶやきというクソを垂れ流しつつも、さて自分のツイートで何がRTされたのかな?などとチマチマ気にする小さな人となる。 気付けば、文章を書き上げることを恐れてしまう。
これはブログを書き続けるという点において、とてもまずいパターンだ。
もっとも簡単に書き上げられる道具も機会も得ながら、うまい具合に成功出来ない自分はだめな奴という自己イメージを作り上げてしまうのである。 だから僕は振り出しにもどりたい。
もっと純粋に自分の意見を言える場所を求めている。
自分自身の発散の場としてのブログがクズであるのは重々承知である。 結局何を書いているのか最後の方は訳がわからなくなった。
これが実力不足だということは承知しています。
ただそうであったとして、何の価値がないとして。
それでも次に進みたい。
こうでもしないと、何もしない自分というものと対峙しなければいけなくなるのだから。
それはとても苦しいことだ。
だから私は前に進む。
少しでも苦しさから解放されるために。